隅田川花火大会

コラム

花火大会はいつから始まった?知られざる由来や歴史を解説

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結論:日本最古の花火大会はいつ?江戸時代「両国の川開き」が原点

夏の夜空を彩る風物詩、花火大会。毎年当たり前のように楽しんでいる私たちですが、「そもそも日本で最初の花火大会は、いつ、どこで、なぜ始まったのか?」と問われると、意外と知らない方も多いのではないでしょうか。

その答えは、さかのぼること約300年、江戸時代中期にあります。

日本における「花火大会」の明確な原点、その最古の記録とされるのが、享保18年(1733年)5月28日(旧暦)に、江戸の「両国(りょうごく)」で行われた「川開き(かわびらき)」での花火です。この歴史的な出来事が、現代の日本の花火大会文化の礎となりました。

享保18年(1733年)、慰霊と悪疫退散を願って始まった

では、なぜこの年に花火が打ち上げられることになったのでしょうか。実は、その背景には非常に痛ましく、切実な理由がありました。

前年の享保17年(1732年)、日本、特に西日本一帯は「享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)」に見舞われます。冷夏や長雨に加え、イナゴの大量発生が追い打ちをかけ、農作物は壊滅的な被害を受けました。一説には、この飢饉による餓死者は1万2千人を超えたとも言われています。

さらに、この混乱の中で江戸の町では「コレラ(当時は“ころり”と呼ばれ恐れられた)」と見られる疫病が大流行し、多くの人々が命を落としました。江戸の人口が密集していたこともあり、その被害は甚大で、町は不安と絶望に包まれていました。

この未曾有の危機的状況を深く憂慮したのが、当時の八代将軍・徳川吉宗です。吉宗は、この大飢饉と疫病によって亡くなった数多くの犠牲者を「慰霊(いれい)」し、さらなる被害が広がらないよう「悪疫退散(あくえきたいさん)」を祈願するため、隅田川(当時は大川と呼ばれた)で水神祭を執り行うことを決定しました。

そして、この水神祭が催された両国の「川開き」の初日に、幕府が花火師の「鍵屋(かぎや)」に命じ(※諸説あり、両岸の料理屋や船宿が費用を出し合ったとも言われます)、盛大に花火を打ち上げさせたのです。日本の花火大会の始まりは、単なる娯楽(エンターテインメント)ではなく、亡き人々への鎮魂と、生きる人々の平穏無事を願う「祈り」であったことが、非常に重要な点です。

現在の「隅田川花火大会」へと続く歴史

徳川吉宗の想いから始まったこの「両国の川開き」の花火は、江戸の庶民の心に深く響きました。暗い世相を吹き飛ばすかのような大輪の花火は、人々にとって最大の慰めであり、楽しみとなりました。

これ以降、「両国の花火」は江戸の夏の風物詩として完全に定着し、毎年多くの見物客で賑わうようになります。(ちなみに、有名な「玉屋〜」「鍵屋〜」の掛け声も、この両国の花火から生まれました)

その後、明治維新や戦争、交通事情の悪化などにより、幾度かの中断を余儀なくされる時期もありました。しかし、その伝統の火は消えることなく受け継がれ、昭和53年(1978年)に「隅田川花火大会」として名称を改めて復活しました。

つまり、日本で最も有名で歴史ある花火大会の一つである「隅田川花火大会」は、この享保18年(1733年)の「両国の川開き」を直接的なルーツとしているのです。今も昔も、夜空を見上げる人々の想いを受け止め、日本の夏を象徴する行事として続いています。

次のセクションでは、花火大会が始まる「前」、そもそも「花火」そのものがいつ日本にやってきたのか、その歴史をさらに深掘りします。

花火大会の前に知っておきたい「花火」そのものの歴史

日本最古の花火大会が江戸時代に始まったことは分かりましたが、それでは「花火(火薬)」そのものは、いつ日本にやって来たのでしょうか。花火大会の歴史を知るには、まず火薬と観賞用花火の伝来の歴史をひもとく必要があります。

火薬は中国で発明、ヨーロッパで発展

花火の原料である「火薬(黒色火薬)」の起源は、中国・宋(そう)の時代(10~13世紀頃)に遡ると言われています。当初は錬丹術(れんたんじゅつ)の過程で偶然発明されたとされ、やがて軍事用の「火器」として発展していきました。

この火薬の技術がシルクロードを通り、13世紀頃にヨーロッパへと伝わります。ヨーロッパでは火薬は主に「大砲」などの兵器として急速に進化しました。そして、イタリア・フィレンツェなどでは、この火薬を平和利用し、祝祭や宗教儀式で打ち上げる「観賞用花火」としても発展を遂げ、人々の楽しみとなっていきました。

日本への伝来はいつ?「観賞用花火」の始まり

日本に火薬が伝わった時期には諸説ありますが、最も有力なのは1543年(天文12年)の「鉄砲伝来」と同時期、ポルトガル人によって種子島にもたらされたという説です。当初、火薬は鉄砲(火縄銃)のための軍事物資として非常に貴重なものでした。

では、「観賞用の花火」としてはいつから存在するのでしょうか。
残念ながら「いつ、どこで、誰が」日本で最初の観賞用花火を作ったのか、その正確な記録は残っていません。

しかし、戦国の世が終わり、世の中が安定してきた江戸時代初期、慶長年間(1596年~1615年)頃には、日本でも観賞用の花火が作られ始めていたと考えられています。当初は、火薬が燃える際の「光」や「音」を楽しむ、現代の花火とは比べ物にならないほど素朴なものだったと推測されます。

徳川家康が日本で初めて花火を見た人物?

日本で最初に花火を見た(とされる)著名な人物として、徳川家康の名が挙げられます。
慶長18年(1613年)、イギリス国王の使者として駿府(すんぷ)城の家康を訪れたジョン・セーリスが、家康公の前で持参した花火を披露した、という記録が残っています。(同時期に、明(中国)の商人が家康に花火を献上したという記録もあります)

家康がこの目新しい「火の芸術」を見てどう思ったのかは定かではありませんが、この出来事をきっかけに、日本でも観賞用花火への関心が高まった可能性は十分に考えられます。

江戸幕府が開かれ、泰平の世が訪れると、火薬の軍事的需要は減少します。その結果、余った火薬の技術が観賞用へと転用され、花火作りが徐々に盛んになっていきました。しかし、当初は火事の危険性から幕府によって度々禁止令が出されるなど、普及には時間がかかりました。花火が庶民の娯楽として本格的に花開くには、もう少し後の時代、「両国の川開き」を待つこととなるのです。

なぜ花火大会は始まった?その知られざる「由来」とは

日本最古の花火大会が、享保18年(1733年)の「両国の川開き」であったことは、冒頭で述べたとおりです。しかし、単に「川開き(かわびらき)のお祭りだから花火を上げた」というだけでは、その本質的な理由は説明できません。

なぜ、あのタイミングで、あのような大規模な花火が打ち上げられる必要があったのでしょうか。その背景には、当時の江戸が直面していた深刻な社会不安と、為政者(いせいしゃ)の強い想いがありました。

享保の大飢饉とコレラの大流行

「両国の川開き」の前年、享保17年(1732年)は、歴史に残る未曾有の災害の年でした。天候不順(冷夏・長雨)と害虫(イナゴ)の大発生が重なり、西日本を中心に「享保の大飢饉」が発生しました。米の収穫量は激減し、米価は異常なまでに高騰。全国で数十万人が餓死したとも言われる、凄惨(せいさん)な事態となりました。

さらに、飢饉による栄養失調で人々の抵抗力が落ちていたところを、強力な伝染病である「コレラ」(当時は“ころり”と呼ばれ恐れられた)が襲います。特に人口が密集する大都市・江戸での流行は凄まじく、多くの人々がなすすべもなく命を落としていきました。

飢えと病によって、江戸の町は活気を失い、死と隣り合わせの不安、そして先行きの見えない絶望感に包まれていたのです。

八代将軍・徳川吉宗の想い

この惨状を最も憂慮したのが、時の為政者、八代将軍・徳川吉宗(よしむね)でした。「享保の改革」を進めていた吉宗にとって、この事態は改革の根幹を揺るがす危機です。

彼は、この大飢饉と疫病によって亡くなっていった数えきれないほどの犠牲者たちの魂を「慰霊(いれい)」し、同時に、今なお続く疫病の「悪疫退散(あくえきたいさん)」を神仏に祈願する必要があると考えました。

そこで吉宗は、享保18年(1733年)、隅田川(大川)の水神に対して盛大な「水神祭」を執り行うことを命じます。これが「両国の川開き」の始まりです。

「慰霊」と「景気付け」が花火大会のルーツ

そして、この水神祭の初日に、慰霊と悪疫退散の祈りを込めて、花火が打ち上げられました。

夜空に響き渡る花火の大きな「音」は、古来より悪霊や疫病神を祓う(はらう)力があると信じられていました。また、天高く咲く大輪の「光」は、亡くなった人々の魂を慰め、天へと導く「送り火」の意味合いも持っていたと考えられます。

さらに、吉宗にはもう一つの狙いがあったとも言われています。それは、暗く沈み込んだ江戸の町と、そこに住む庶民の心を元気づけるための「景気付け」です。自粛ムードばかりでは経済は停滞し、人の心もふさぎ込む一方です。あえて盛大な花火を打ち上げることで、人々に楽しみを提供し、「明日への希望」を持たせようとしたのです。

つまり、日本の花火大会のルーツは、「犠牲者への慰霊」「疫病退散の祈願」「庶民の心を励ます景気付け」という、非常に切実で深い想いから始まっているのです。単なる娯楽として始まったのではない、という点が、日本の花火文化を理解する上で非常に重要なポイントです。

江戸から現代へ。花火大会の歴史と発展

享保18年(1733年)の「両国の川開き」を原点として、日本の花火大会は江戸の町人文化とともに大きく花開いていきました。そして、それは時代の荒波を乗り越え、技術の革新とともに姿を変えながら、現代の私たちへと受け継がれています。

ここでは、江戸時代から現代に至るまでの、花火大会の発展の歴史を追ってみましょう。

江戸時代の花火(町人文化としての開花)

徳川吉宗によって始められた「両国の川開き」の花火は、瞬く間に江戸庶民の心をつかみ、毎年恒例の行事として定着しました。納涼のために隅田川に繰り出す「舟遊び」と花火見物は、江戸の夏における最大の娯楽となります。

当時の花火は、まだ火薬の技術が発展途上であり、現代のようなカラフルなものではありませんでした。主な色は、火薬(木炭)が燃える際の「赤橙色(せきとうしょく)」のみ。星(火の粉)がチリチリと燃える様子を楽しむ、素朴で風情のある「和火(わび)」が中心だったと言われています。

「玉屋(たまや)」「鍵屋(かぎや)」掛け声の由来

江戸の花火文化を語る上で欠かせないのが、「玉屋~!」「鍵屋~!」というあのお馴染みの掛け声です。

「鍵屋」は、両国の川開きが始まった当初から花火を請け負っていた、老舗の花火師(御用花火師)です。その後、鍵屋から暖簾分け(のれんわけ)を許された職人が「玉屋」を名乗り、独立します。やがて、両国の花火は隅田川を挟んで、上流を「玉屋」が、下流を「鍵屋」が担当する「競演」の形となりました。

川岸や舟の上から花火を見ていた江戸っ子たちは、見事な花火が上がると、その花火師の名前を大声で呼んで喝采(かっさい)を送りました。これが、あの掛け声の始まりです。(※玉屋は後に失火(火事)を起こした罪で江戸を追放されてしまいますが、その人気から掛け声だけは現代にも残りました)

明治~戦前(技術革新と競技大会の登場)

明治時代に入ると、西洋から様々な化学技術がもたらされます。これが日本の花火に一大革命を引き起こしました。「塩素酸カリウム」や「マグネシウム」、そして「ストロンチウム(赤)」や「バリウム(緑)」といった金属化合物を燃焼させることで、それまで不可能だった鮮やかな「色彩」が表現できるようになったのです。

これにより、花火は「和火」の時代から、現代のような色鮮やかな「洋火(ようび)」の時代へと移行します。また、花火師たちが技術を競い合う「花火競技大会」もこの頃から登場し、日本の花火技術は急速に品質を向上させていきました。

戦後の復興と花火大会の再開

しかし、太平洋戦争が始まると、火薬は軍事用に厳しく管理され、また「贅沢は敵」という風潮の中で、全国の花火大会は次々と中止に追い込まれます。

終戦後、焦土と化した日本各地で、花火大会は「戦後復興」と「平和への願い」の象徴として、いち早く再開されていきました。江戸時代に「慰霊」と「悪疫退散」から始まった花火大会は、ここでも再び、人々の心を慰め、未来への希望を灯すという重要な役割を担ったのです。

現代の花火(大規模化・エンタメ化・ミュージックスターマイン)

そして現代。花火大会はさらなる進化を遂げています。コンピュータ制御による0.01秒単位での精密な打ち上げが可能となり、音楽のリズムやメロディと花火を完全にシンクロさせる「ミュージックスターマイン」が主流となりました。

数千発、数万発が打ち上がる「大規模化」と「エンターテインメント化」が進み、花火大会は単なる納涼行事から、壮大な「光と音のショー」へと変貌しています。しかし、その根底には、江戸時代から続く「慰霊」や「祈り」、そして「平和への願い」が、今もなお息づいているのです。

花火大会は「夏」に多いのはなぜ?

「花火」と聞けば、誰もが「夏」を連想します。浴衣、うちわ、夜空に咲く大輪の花…。これほどまでに「花火=夏」というイメージが日本人に定着しているのはなぜでしょうか。その理由は、花火大会が始まった歴史的背景と、日本の伝統的な風習に深く結びついています。

「川開き」と「お盆」の風習との結びつき

まず第一の理由は、日本最古の花火大会である「両国の川開き」が、夏の行事として始まったことです。
「川開き」とは、江戸時代、暑い夏を涼しく過ごすための「納涼(のうりょう)」シーズンの始まりを告げる行事でした。人々が川に舟を浮かべて夕涼みを楽しむ、その幕開けのイベントとして花火が打ち上げられたのです。また、夏は疫病が流行しやすい季節でもあったため、花火の大きな音と光には「悪疫退散(あくえきたいさん)」の祈りも込められていました。この「納涼」と「祈願」という、夏ならではの目的が花火と結びついたのです。

第二の理由は、夏の一大行事である「お盆(おぼん)」との関連です。
お盆は、ご先祖様の霊をお迎えし、そして再びお送りする日本の伝統的な期間です。お盆には、先祖の霊を迎える「迎え火」や、送る「送り火」を焚く風習があります(京都の「五山送り火」などが有名です)。
花火大会のルーツが「慰霊(いれい)」であったことからも分かるように、夜空に高く打ち上がる花火の光は、この「送り火」と通じる「鎮魂(ちんこん)」の意味合いを持つと捉えられるようになりました。お盆の時期に合わせて行われる夏祭りや盆踊りのクライマックスとして、花火が打ち上げられることが全国的に広まっていったのです。

花火=夏の風物詩となった理由

このように、日本の花火大会は「納涼」と「鎮魂」という、二つの夏の風習と強く結びついて発展してきました。
もちろん、実用的な理由もあります。夏は日中の暑さを避け、比較的涼しくなる「夕涼み」として、屋外で夜空を見上げるのに最適な季節です。湿度の高い日本の夏ですが、川辺や海辺は風が通りやすく、花火鑑賞にはうってつけの場所でした。

こうした歴史的・文化的な背景と、気候的な要因が複合的に絡み合い、「花火」は日本の夏の夜を象徴する、切っても切り離せない「風物詩」として、私たちの心に深く刻まれているのです。近年では空気が澄んだ冬の花火も人気を集めていますが、花火の原点にある想いは、やはり日本の夏とともにあると言えるでしょう。

歴史を知るともっと楽しい!日本三大花火大会とは?

日本の花火大会が「慰霊」や「復興」といった深い歴史と祈りから始まっていることを知ると、夜空を見上げる気持ちも少し変わってくるのではないでしょうか。こうした花火文化の発展の中で、特にその技術、規模、そして歴史的背景において、「日本三大花火大会」と称される、別格の大会が存在します。

これらは単なるイベントではなく、花火師の技術がぶつかり合う「競技会」であったり、地域の人々の「平和への願い」が込められていたりと、まさに日本の花火の歴史と技術の粋(すい)が集結した場所です。一度は訪れたい、最高峰の花火大会をご紹介します。

【秋田】全国花火競技大会(大曲の花火)

秋田県大仙市で開催される「大曲(おおまがり)の花火」は、日本で最も権威のある花火競技大会として知られています。その歴史は明治43年(1910年)に始まり、全国から選び抜かれた一流の花火師たちが、内閣総理大臣賞という最高の栄誉を目指して技術を競い合います。

昼間に行われる「昼花火」の部と、夜に行われる「夜花火」の部があり、特に夜花火は「割物(わりもの)」の美しさを競うだけでなく、テーマ性や創造性を問われる「創造花火」も見どころ。日本の花火技術の最先端と芸術性を体感できる大会です。

【茨城】土浦全国花火競技大会

茨城県土浦市で開催される「土浦の花火」も、大曲と並び称される日本最高峰の競技大会の一つです。大正14年(1925年)に始まり、霞ヶ浦を舞台に、全国の花火師たちが技を競います。

この大会の特徴は、「スターマイン(速射連発)」の部が非常に重視されている点です。次々とリズミカルに打ち上がる多種多様な花火が、観客を圧倒します。また、秋(11月上旬頃)に開催されることが多いため、空気が澄んだ中で、より色鮮やかな花火を楽しめるのも魅力です。

【新潟】長岡まつり大花火大会

新潟県長岡市で開催される「長岡の花火」は、競技大会である上記二つとは少し毛色が異なります。この大会のルーツは、昭和20年(1945年)8月1日の長岡空襲で亡くなった方々への「慰霊」と、街の「復興」への願いを込めて、翌年(1946年)に開催された「長岡復興祭」にあります。

まさに、江戸時代の「両国の川開き」や戦後復興の歴史と直結する、「祈りの花火」です。信濃川の広大な河川敷を舞台に打ち上げられる「復興祈願花火フェニックス」や「正三尺玉」のスケールは圧巻の一言。花火の美しさだけでなく、平和への強いメッセージ性が観る者の心を打つ、特別な花火大会です。

まとめ:日本の花火大会は「慰霊」と「平和への願い」から始まった

「花火大会はいつから始まったのか?」という疑問から、その歴史をひもといてきました。
日本で最古の花火大会とされるのは、享保18年(1733年)の「両国の川開き」であり、それは当時の八代将軍・徳川吉宗が主導したものでした。

そして最も重要なことは、その始まりが単なる娯楽や「お祭り」ではなかったという事実です。
その根底にあったのは、享保の大飢饉やコレラの大流行によって亡くなった、数多くの犠牲者たちの魂を弔う「慰霊(いれい)」の想い。そして、これ以上災いが起きないようにと願う「悪疫退散(あくえきたいさん)」という切実な「祈り」でした。

花火の大きな音と光は、悪霊を祓い、人々の暗く沈んだ心を励ます「希望の光」でもあったのです。

この「祈り」と「鎮魂」の精神は、江戸時代から途切れることなく受け継がれています。太平洋戦争によって焦土と化した日本各地で、「戦後復興」と「平和への願い」の象徴として花火大会がいち早く再開されたことも、その表れに他なりません。(新潟県の「長岡まつり大花火大会」は、その精神を今に伝える代表的な例です)

現代の私たちは、花火のエンターテインメント性や、夜空を彩る圧倒的な美しさに目を奪われがちです。しかし、その花火一発一発には、約300年前から続く、死者を悼み、平和を願い、明日への活力を得ようとしてきた日本人の「想い」が込められています。

次に花火大会を訪れる際は、ぜひその歴史に想いを馳せてみてください。ただ「きれいだ」と見上げる花火が、少し違った、より感慨深いものに見えてくるかもしれません。

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ハナビーム

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